人見知りが人見知りのままでいいことを証明するブログ

元・場面緘黙症の人見知り人間が、心を奮い立たせて色々な人と関わっていく様子を綴っていきます

二言目:「人見知りだから」を理由にいろいろなものを諦めるのは勿体ない

物心ついた頃から、私は他人から見た自分の姿というものを酷く気にしていて、うまく表現できずにいた。その状況に名前がついたものが場面緘黙症というやつで、これは当時の私も私の両親も知らなくて、私が20歳になったころに初めて知った。慣れない場所、人、状況の中で喋れなくなり、酷いときは動くこともできなくなる。自分でもびっくりした。まさに不可抗力だった。当時3歳か4歳だった私には、本当に何もできなかった。

そんな過去もあって、私は今までずっと「嫌な人見知り」と共に生きてきた。おそらく、対人恐怖症もあるんだろうし、社会不安障害もあるのだと思う。その筋の医者にかかったことがないからわからないけど、きっとあてはめればあてはめただけ、状況には名前がつく。病気や症状って、結局そんなものだと思う。

辛い場面はたくさんあった。人見知りな自分は大嫌いだった。人見知りをするたび――人見知りをして他人に気を遣わせたりするたびに、落ち込んだ。理想の自分は、いつも人の輪の中でキラキラ輝いていて、自分みたいに人とどう接すればいいかわからない人を明るく救いあげて、みんなで幸せそうに笑ってる。そういう感じだった。

でも、今ならわかる。そんなの絶対無理だし、自分らしくもない。っていうか、人見知りするような人は、他人から救いあげてもらいたい人ばかりではないだろう。自分だって、人見知りの自分に気を遣う人の姿を見て落ち込んだくらいなのだから。そんな矛盾に全然気づいていなかった。本当に私みたいな人を救いたいなら、隣で静かに笑ってくれているだけでいい。スポットライトを当てるようなこと、してくれなくていい。したくもない。

25歳にもなると、精神的にもだんだんと図太くなってくる。実はもともと図太かったのかもしれないけど、もうどうにでもなれ!という感覚が徐々に出てきた。高校生の時は毎日あんなに死にたかったのに、人生とは不思議なもので。昔の自分にとって未来はずっと地獄のようなものだと思っていたのだけれど、今では未来は360℃バラ色、幸せで満ち溢れている。こうなると、今まで荷物だと思っていたものは、いい感じの味わいを出してくれる。私にとっての人見知りは、今やチャームポイントの一つになりつつある。「良い人見知り」人生の始まりである。

そんなわけで私は今までの20年以上、「人見知りだから」を理由に諦めてきたものがたくさんある。飲み会の誘いもできる限り断ってきたし、慣れない人との集まりには絶対に顔を出さなかった。新しく何か始めようと思っても、一人で完結できるものを選んだし、買い物をするときは店員さんが声をかけてこなさそうな店を選ぶようにしてた。面白そうな人との出会いがあっても、自分から食事に誘ったりしなかった。本当は、全部、したかったことだった。気にせず堂々としていたかった。チャンスがあれば、いつかやりたいと思っていたことだった。

人見知りのままでもいいんだと思うと、何でもやれる気がしている。幸いなことに私には、度胸も勇気も有り余る好奇心もある。人見知りというストッパーがなければ、行動力もある。実際、北海道から沖縄に移り住むぐらいのことはできたのだから。ちょっとくらい傷つくのは、もういいのだ。それ以上のものが手に入りそうな予感がしているから。

世の中には、自分と同じような境遇の人が案外たくさんいると思う。そういう人のささやかな希望になれるように、私は明日も挙動不審になりながらも颯爽と生きます。