人見知りが人見知りのままでいいことを証明するブログ

元・場面緘黙症の人見知り人間が、心を奮い立たせて色々な人と関わっていく様子を綴っていきます

一言目:世の中は人見知りに優しくも厳しくもない

私が幼い頃から常々感じていること。人見知りは、社会にとってマイナスな存在であるという認識が多く出回っている。そのため、私は親から「ちゃんと目を見て挨拶しなさい」とか「大きな声で返事をしなさい」とか「もっと人当たりの良い人になりなさい」と口を酸っぱくして言われてきました。まあ、どれも当時の私にはとてもじゃないけど実行できないことだったのですが。

今も昔も、元気で明るくて常に人の輪の中でキラキラと輝いている人は、それはそれは人生を存分に謳歌しているのだろうという印象を受けます。そして、そういった人たちはその有り余る人脈とコミュニケーション能力を駆使して、自分のやりたいことを見事に叶えていきます。まるで、予めそのための道筋が用意されていたかのように。

「チャンスを握っているのは、いつも人である」とはよく言ったもので、たいてい成功の陰には人との出会いがあります。この人がいたから頑張ってこれた、この人に会えたから今の自分がある――よく聞く言葉です。だけど、真理です。

私は人見知りであり、程度はどうあれ対人恐怖症でもあると思います。慣れない人と会うのは億劫だし、できれば避けたいことだし、何よりとても怖いことであると思っています。人と会うということは、それだけその人からの影響を受けるということだし、同じように相手にも少なからず影響を与えてしまうことだと思います。私にとってそれは、とっても不安で怖いことなのです。

学生時代、授業の内容理解度が高いからと、グループディスカッションを主体とした授業を展開する教授が多くいました。なるほど、グループで話し合いを重ねると、色々な人の意見をもれなく吸収することができ、なおかつ自分の意見も反映させることができます。場合によっては個々人で考える以上のアイデアや発見が湧き出てくることだってある。これはとても面白いことだと思うのですが、私は人見知りで自意識過剰な人間なので、「自分の意見が変だと思われたらどうしよう」、「みんなの話の腰を折るような発言をしてしまったらどうしよう」となかなか活発に発言できずにいました。もちろん、黙り込んでいる間の精神状態というのはとてもいいものではありません。そして、どんどんと人と関わる機会というものから遠ざかるようになりました。

だけど最近は、この考えも変わりつつあります。ある意味、鈍感になったのかもしれません。少しだけ、精神的に図太くなったような気もします。この性格はどう頑張ったって変えられない、努力の範疇を超えていると理解してからは、ならしょーがないじゃないかと開き直れるようになってきたのだと思います。同じように、周りの人たちもどんどん大人になっていって、いろんな人がいることを受容できるようになっている気がします。私の性格を補助できるようなタイプの人は私をさりげなく助けてくれますし、私の性格を好ましく思っていない人は、良い距離感を保ってくれます。皆さん、ちゃんと大人なのです。いろんな人がいるということを、わかってくれるのです。

人見知りである自分のことが大嫌いだった過去の私は、人とうまく関わっていけない自分に居場所なんてないと思っていました。だから人の輪の中に飛び込んでいくことはできるだけ避けたし、本当に深く狭い世界の中で窮屈な思いをしながら生きてきました。

でも、人見知りのまま世の中に出ていくということは、結構面白いことであると最近は思います。喋れないなら喋れないでいい。堂々と人見知りしていればいいのです。気にしてくれる人は絶対にいるし、そんな姿を逆に気に入ってくれる人も世の中にはいます。自己主張の激しすぎる人よりも、ずっと関わりやすい。

チャンスというのは、自分ではない誰かが持っていることが多いです。そして、それを受け取るには、やはり関わっていくしかない。チャンスは面白いです。一度つかむと、それが数珠つなぎになっているかのように、どんどんどんどん広がっていきます。

人見知りであるのなら、まずはそれを認めること。そして、人見知りのままで生きていく覚悟を決めること。そうすれば、なんとなく、心がスッと楽になります。私はずいぶんと意地を張って、無意識のうちに自分とは真逆の人格を目指していた節がありました。それで随分と苦しみました。反省。

タイトルに戻ります。世の中は平等です。人見知りだからとマイナスな感情を持つ必要な全くありません。